第二百五十三話 C 32歳の革命 / 安らかな眠りのために
出立37~9日目(通算287~9日目)キューバ12~4日目 サンタ・クララ1~3日目
レオとヤミの家を出て、ビアスールのバス停へ。
人気のトリニダーからのバスは取りづらく、サンタ・クララ行は3日後とかのが取れる始末だったので注意。8:30発~11:25着 8CUC
荷物を預けるときに1CUC取られた。足元見やがって……。
しかしビアスールさんは高いだけあって快適。寝てるうちに着いた。
さぁ、ここからが地獄の始まり。客引きとの果てしないバトルである。
しかし、脱出時の経験から、まずはバスを押さえたい。食い下がる婆さんらも引き連れて、バスの予約場所らしきとこへ。
そこに台湾レディがおり、彼女が英語とスペイン語が話せたため、だいぶ助けられた。
サンディアゴデクーバ行きは各便あるが、到着時間が夜になるのは避けたいので、そうすると朝着く便:19時半発 33CUCになる。
しかし、どうもその日にやって来た先着順みたいで、仮押さえ的なことしかできなかった。当日は2時間前か。カミオンと変わらねぇ。
ここで婆さんとの戦いが始まる。朝食付き20CUCから一切まけてくれない。そんなに腹いっぱい朝から食えないし、15で朝食付きにならねぇかなぁと言うが全く折れない。台湾レディも手伝ってくれるがダメ。
他の人が「ならウチが……」と来かけても「あたしの客だよっ!」と弾き飛ばす。ええっ、もういいよ……。台湾レディがその間にタクシー運転手の知り合いの宿で15で行けるところを話を付けてくれ、婆さんから逃れる。婆さんは恨み言を履いて消えていった。この際だから言っておこう。如何にスペイン語で罵倒されても全く意味が解らんから、痛くも痒くもないぞ!性根を治して出直して来いっ!(滅茶苦茶……)
ただ、大体のサンタ・クララの宿は20が基本みたい。
台湾レディは別の宿を押さえていたので、移動時の再会を約して別れた。ああ、いい子だなぁ。
「私も旅先で誰かに助けられたから、できるときにするのがお互い様」とカッコいい名言を残して。うむ!いい事を言う!そうだな、私も……私は……助けたこと……あったかなぁ……。まぁ次だな!
サンタ・クララはコロンブスによって開かれ、キューバで最初のヨーロッパ人建設の街である。17世紀にはスペインの植民地統治の中心地として栄え、農産物の中継地としても機能していた。
そして革命の際、エルネストによって解放されたことでも有名。結構重要な都市だ。
そしてついた宿のおっちゃん、Obdulioさんがこれまた親切&英語しゃべれるというありがたさ。
「朝食簡単になっちゃうけどいい?」と説明してくれたのは十分すぎる内容。
しかも部屋が……
めっちゃ広い!エアコンもついてるしテレビもあるし冷蔵庫もある!
こ、これは滅茶苦茶お得なんじゃ……。
しかも今回は絶対に今を通らないと出入りできないから、おっちゃん(Obdlioを略してもおっちゃんだ!)と顔を合わせることになる。まともなキューバ人とガッツリ絡めるぞ!
(宿情報は最後に……)
意気揚々と宿を出た私だったが、暑い!トリニダーは海のそばだったけど、ここは内陸だったこともあるのか、さらに暑い!挫けそう!でも負けない!
街の様子を探りつつ。人民サンドを頬張って、この街最大の目的地へ。
「チェ・ゲバラ霊廟」
キューバの英雄、チェ・ゲバラは1967年、キューバでの身分を捨て、ボリビアで革命運動に参加していたが、政府軍との戦闘で捕らわれ、翌10月9日に射殺された。
没後20年を記念して、ゲバラの銅像と、その戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて38個の石を安置した霊廟が、革命の突破口となったこの街に建てられたのだ。
97年にはボリビアでチェの遺骨が発見され、カストロの手でこの地に納められた。
強大な像は6mあり、開けた場所で大きく映える。観光客もいっぱいだ。
彼の名言「Hasta la Victoria Siempre(常に勝利に向かって)」が台座に彫られていてカッコいい。VRVロボのキャッチコピー「絶対に勝つことを約束されたマシン」を勝手に思い出す。
この下には軍人がいて、カメラはおろか、バッグも持ち込めないミュージアムがあり、エルネストの子どもの頃からの写真や遺品の数々が展示されている。荷物預けも入場料も無料なのは、さすがに自由の戦士の霊廟だ。
帰り道、反戦系の絵が並ぶ壁に。
キューバは壁のアートをよく見るが、この辺のテーマ固まってる系は初めてだ。こういうのは言葉がわからなくても伝わるものがあるのがいいよね。
さて、暑さでヘロヘロになりながら中心地へ戻るが、まぁ、この街の見どころは少ないし、なんか今日はもうダメなので、コーラで命を繋いで宿に戻る。英気を養ってから夕食へ。
行こうと思っていたところのことごとくが締まっており、そういえば人民系食堂は閉まるのが早いことを思い出す。失敗したなぁ。
比較的安いカフェでパスタとモヒート。パスタは安いが、つい頼んだモヒートで4.1+チップ2.5CUC。
パスタはものすごく柔らかく、ハムの塩気がなければ味がしない仕上がり。いいぞ、こういうのを待っていた!台湾レディSさんが居たり、ずっとジェスチャーで話しかけてくる変なおっちゃんがいたり、この街もなかなかに味がありそう。
カサに戻ると丁度Obdlioさんも帰宅するところ。家族写真を見せてもらったり、一緒にテレビを見たり。そうそう、こういうのだよ!正直何言ってるかわからなかったキューバのテレビ。でも面白いなぁ。
翌朝の朝食がこちら。
うん、十分だね。逆にこれ以上いらないよね!
それにしてもマンゴーとかパパイヤとか、本当にうまい。日本で食ったら絶対高いことがわかる味。マンゴージュースはここのもうまい。もうこれだけで移住決めるレベル。
腹いっぱいのまま、「今日も暑いよ。サンディアゴはさらに暑いけどね」とオブさんに見送られ、出掛けたのが
「Monumento a la Toma del Tren Blindado」
革命勝利の一年前、チェ率いる革命軍はここでバティスタ軍の装甲車を襲撃。多くの武器を奪取し、バティスタに亡命を決意させた地とされる。
ああ、これ、「28歳」で見た!ハイライトのシーンだね!いやー、帰ったらまた観よう。
列車の中には写真や武器、資料が展示されている。
カッコいいなぁ、こんな風に言われて。
中心地に歩いていくと、朝もすれ違ったキューバ人に日本語で話しかけられた。また葉巻の話してる……。
コーヒーを飲んだが、何やらたかられそうなのでチェの霊廟に行く、とおさらば。まぁ、コーヒー奢ったしいいだろ。悪い奴じゃないとは思うけどね。
まぁ、しかし、することないのは事実なのでチェの霊廟へ再び。うむ、何度見てもカッコいいな。行き帰りは暑いし遠いしでしんどいが、博物館の冷房が最高に効いているので、癒される。しかし欧米人は観光バスで乗り入れているし、歩いて行ってるのは私くらいだろうな。いいなぁ。
お昼は人民食堂で。てっきりナショナルビールかと思ったら、ハイネケン。
中華っぽい店だからか、炒飯っぽいごはん。しかし看板の龍がなんか龍騎の頭のマークっぽいんですがそれは……。ビールと合わせて60CUP。
店員の姉ちゃんがかわいかったし英語が話せたが、CUCで払ったら素敵な笑顔で若干おつりを誤魔化されたぞ。まぁまぁまぁ、やるけどな!チップでいいけどな!
宿で一眠りしていると、雨。
風を通すためか、家の構造に外と窓無しで繋がる場所があるため(おかげで昼でも涼しい)、音がよく聞こえる。
夕食はハンバーガーに。ケチャップとマスタードが欲しかったとです。
チップ込みで4.75CUC。肉もちゃんと作ってるし、おいしい。
人気店らしく、次々人が来る。食い終わっても一向にどかない欧米人カップルの横で、気を使って早めに食べる。ああ、こういうとこ、日本人だよなぁ。
雨が降り始める中、店を出る。
今日は午後雨ふりで涼しくて歩き易かった。さして人が多いわけでもない街は、静かに夜を迎えていく。
翌日、朝食はパパイヤがバナナに変わったくらい。
マンゴージュースは水と混ぜただけだったと判明。そんな気はしていたが、つまりマンゴーの素の力だ。
しかも今(7~9月)はちょっと旬からずれているらしく、冷凍したものを使っているとか。
(確かに街で見かけるのはほぼ青い奴だけ。たまーに赤くなったのもあるけど……)
そう言えば、レオとヤミの家の冷凍庫にも大量のマンゴーがあった。そういうわけだったのか。
見残した最後のポイント、チェが子どもを抱き上げている像へ。
かっこいい。
昨日の「Monumento a la Toma del Tren Blindado」のある大通りをもう少し北東に進むとある。
背後の建物にも大きく彼のサインが入っていたり、本当にこの街はチェ推し。
公園のベンチでは木の実で汚れていたところを、おっちゃんが新聞紙で拭いてくれたり、なんだかんだでこの街の人は暖かい。
荷物や写真の整理をしていたら、マンゴージュースの差し入れがあった。褒めたことを覚えていてくれたのか。嬉しい限りである。
昨日と同じところで昼食。今日はポークと思ったが、鳥しかないというので、今日も鶏。
姉ちゃんが覚えていてくれたらしく、ニコニコと対応してくれる。本日はマンゴージュースとのセット。宿の方がうまかったが、それにしてもこの国のフレッシュジュース(juego)のクオリティはバカに高い。なんなんだろうか。
そしてCUCを混ぜて33CUPになるように出したのに、何故か2CUP返ってきた。
ルールがわからない。
あーこの姉ちゃんに会えるのも最後かーと思うと、惜しい気がした。
なんか町のシンボル?靴から水漏れ少年は、オブさんのカサのマークにもなっていた。
バスの時間までオブさんと話す。初日の、「奥さんは今いない」という口ぶりから、てっきり召されたのかと思ったら、スペインにいるという話が飛び出て驚く。
娘さんはよく海外旅行に行って~というが、基本的にキューバの人たちは出れない。ヒロンの兄ちゃんも出たがっていたが、就労ビザとか取れないと、あとは亡命しないと国外に出れなかったはずだ。
してみると、こちらのご家族は何かしらの資格を持っている様だ。
この前日が8月9日ということで、意外にもキューバの新聞に長崎の記事が掲載されていた。そういえば、ゲバラは献花に来てくれたことがあったんだっけ。
「何で日本人はアメリカ人と仲良くできるんだい?私はあの国嫌いだけど」
うーむ、難しい話だ。キューバ人とかベトナム人に言われると、余計に難しい。ましてや御年75のオブさんはバリバリの革命期経験者だ。なんなら何かしらに参加していたかもしれない。
そう考えると、この妙に穏やかで優しい物腰の奥に、何か場数を踏んだ理由がある様に思えて来る……。
「ちょっと前に行った時、あの国の連中、酒片手に薬やってるのがゴロゴロしてたからね。もうダメだ、あの国」
個人的なのだったー!!そう言えば、「サンディアゴの連中は昼から両手に酒だ。あの町は嫌いだ」とさっき言ってたけど、そういう感じね!
藤岡先生は「復讐をして子孫に何を残すというのか。怒りや憎しみを抱かぬよう、祖先たちは全て背負い、死んでいったのだ」と言ったが、それを繰り返さないためにはどうすべきか、常に考え続けることが子孫であり、先祖となる我々の責任なのだろうと、そんなことを考えた。
さて、ビアスールの長距離のバス停までは、広場からバスも出ている。
オブさんに別れを告げ、北側の面で待つ。7と8は確実に行く、と言われてまっていたら、「チーノ、これも行くぞ!」と呼びこまれた。R2だかP2だったかな。
1CUP払うと、デカい荷物だから後ろから乗れ、と言われ、大急ぎで行くと、がタイのいい兄ちゃんが荷物を引き上げてくれた。さらに降りる駅があと何駅か、別の人が教えてくれ、
「ここだ!」と子どもたちが叫ぶ。何てイイ奴らなんだ!まるでア・バオア・クーから脱出した時のアムロの気分だよ!ありがとう!チーノじゃないけどな。
そういえばチーノと言われてなんか腹立つのはなぜか考えたのだが、響きにチンパンジー感が漂うからではないだろうか。どうでもいいか。
ここからが長かった。いや、始めに気付くべきだった。
前述の台湾レディ・Sさんが時間の2時間前には来ていた方がいいかも、と言っていたのにいろいろあって3時間前に付いていたが、「19時に来てくれ」と言われる。
バスは19:10発。
あれ?ひょっとして、ウェイティングリストだったんじゃね?
思えば、3日後に出たい、という意思を伝えてこうなったわけだが、いつの切符ならあるか、という聞き方はしなかったわけだ。
そして案の定、「席はいっぱいだ」俺死亡!
おお、なんということだ……。仕方ない、役に立たないスペイン語のテキスト上の単語と英語を織り交ぜて、「乗れないのはわかったから、いつのチケットなら買えるんじゃ!」と聞いてみるものの、
「そんなことはわからない。明日も明後日も、日曜日まで多分埋まってる!」
「多分ってなんじゃい!オドレのとこのバスちゃうんかい!」と話は平行線。
「いつのバスならチケットはありますか」という例文をネット環境のある時に作っておくべきだった!!そういう問題じゃなさそうだけどな!
「今日の0:20発のなら多分空いてる!バラデロからのやつだから!」とオヤジ。わかったよ、待つよ。で、和解。再びウェイティングリストとわかったソレに名前を書く。
途中の街にあるとはいえ、チケット自体は買えると思う。だから聞き方が悪かったんだと思うが、皆さんはその辺きちんと。ローシーズンなのに取りにく過ぎるので。
途中で出歩いたりしたものの、計8時間を固い椅子の蒸し暑いバスステーションで過ごし、ようやく乗り込んだバス。これなら、よく眠れるか?
<サンタ・クララのカサ情報>
「Hostel Alina」
Bonifacio Martinez♯19e / Serafin Garcia(Nazareno)y E.P.Morales(Sindico)
(セントロ南東の角の道を5ブロック程下っていき、左に通りを一本入ったところを進む)
Maps meに表示あり
朝食付き 20CUC
※奥さんがいるときは、夕食の用意もできるとか。費用は洋相談です。
人がいないから15にしてくれたけど、みんなは無理言っちゃだめだぞ!
戦士の魂が、我を呼ぶ!!